2025.8.3  聖霊降臨後第8主日礼拝 説教要約
コヘレトの言葉 1章2節、2章21~23節
コロサイの信徒への手紙 3章1~11節
ルカによる福音書  12章13~21節
                          

「人は何によって生きるか」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 イエス・キリストが本日のところで、群衆の一人からお願いをされます。群衆の一人が、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」ということをお願いするのです。遺産を分ける。遺産相続ということですが、当時は今と違って子供たちには遺産を分けるときに、長男が一番多くもらえたのです。その残りを他の兄弟たちが分けるということをしていました。どうやらこの人は父親が亡くなって遺産相続をするときに、長男だけが遺産を独占していて、弟である自分たちに遺産を分けてくれないのだ、ということを訴えたのです。それに対して、主イエスが「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」とおっしゃいました。わたしは、そのような役割を果たすことはないとおっしゃったということなのですが、さらに「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。あり余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」とお語りになりました。あなたがもらうはずの遺産の相続分をもらいたいというのは貪欲であるというような言い方を、主イエスはここでなさったのでしょうか。そうではなく、主イエスがおっしゃりたかったのは、人の命というのは財産によってどうすることもできないのだ、財産によってその人の人生が決定づけられるのではないのだということなのです。

 16節以下に、ある金持ちの畑が豊作であったというたとえ話があります。金持ちは、そのあり余る収穫物をどうしようか、保管する場所がないから、今ある「倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」と考えました。あり余る財産があれば、自分が好きなことをして安楽に暮らせるんだと彼は安心したのです。しかし、そのお金持ちについて主イエスは「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」とおっしゃるのです。「愚かな者よ」とこの金持ちを厳しくお叱りになるわけです。お前は自分の財産が増えて、この財産があれば自分は安楽に豊かに安心して暮らせると思っているのだろうけれども、お前の命が明日取り上げられたら、どうなるのだと言われたのです。本日皆さんと読みましたコヘレトの言葉に「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦しても何になろう。」とあります。自分が蓄えた財産を自分のために使おうと思っても、明日もし自分が死んだら、それを遺産として分け渡さなければならない。もしくは、子供がいなければ赤の他人にに渡さなければいけない。それは空しいことではないか、ということになるのです。

 主イエス・キリストはここで、わたしたちが依り頼むべきものは、自分たちが持っているものなのではないのだとおっしゃるのです。自分の持っているものというのは、不動産とかお金とか、その他いろいろな物的な財産ということだけではなくて、自分の能力とか、自分の身長が高いとか低いとか、ルックスがどうであろうとか、そういうことも含めて、そういう自分が持っているもの、それによって、わたしたちは自分自身、自分の人生が決まるんだ、わたしたちの人生を決定づけるものは、自分が持っているものなのだというふうに考えてしまうのです。物的な財産だけではなくて自分の健康とか能力とか、そういうものが自分の人生を決めるのだと、わたしたちは無意識のうちに自分で思い込んでいるのです。主イエスが「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。」とおっしゃっていたのは、そのことなのです。

 21節で「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と主イエスはおっしゃっています。「神のために豊かになる」という翻訳もあります。ここはわたしたちは主イエスから、神様から問われているのです。「神の前に豊かになる」ということはどういうことなのか、自分のために富を積む、自分のために豊かになる、いくら自分のために豊かになったところで、命が取り上げられたら、それで終わりではないかと。それこそ空しいことではないかと。

 それでは、「神の前に豊かになる」というのは、どういうことなのでしょうか。わたしたちの救いのために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけてまで、わたしたちを愛してくださっている神様の恵みに、わたしたちが全てをお委ねするということ、わたしたちが自分がもっているものとかではなくて、神様の恵みに依り頼んで生きる、そのことが「神の前に豊かになる」ということなのです。わたしたちがともすれば、目に見えるもの、自分の財産や自分の能力とか、そういうものに依り頼んで生きようとするのではなく、目には見えないけれども、神様の恵みに信頼して、依り頼んで全てを神様にお委ねして生きるということが、「神の前に豊かになる」ということなのです。わたしたちが自分の持っているものではなくて、神様の恵みに依り頼んで生きるときに、自分に与えられているものを、自分の倉にしまい込むだけではなくて、隣人のためにそれを用いていくという生き方が与えられるのです。それが、貪欲から解放されるということです。それこそが、本当に賢い生き方です。それが、自分のために富を積むのではなくて、父なる神様の恵みによって、豊かに生きるということなのです。わたしたちが何によって生きるのかということをわたしたちはしっかりと本日のところから聴き取って、空しいものに心を奪われることなく歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。

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