2025.8.10 聖霊降臨後第9主日礼拝 説教要約
ホセア書 13章9~14節
コリントの信徒への手紙一 15章50~58節
ルカによる福音書 6章39~45節
本日は、「コリントの信徒への手紙一」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
わたしたちはいつか誰も例外なく、必ず死を迎えます。しかし、イエス・キリストがわたしたちの先駆けとなって、約二千年前にイスラエルの地で復活なさっています。死人がよみがえるということが実際に起こったのです。わたしたちもまた、必ずや復活の命をいただけます。しかも、それは幽霊か何かということではなくて、肉体を持って、霊の体をもって、新しい体でよみがえることができると聖書では約束されているのです。 本日のところで50節に、「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことができず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」とあります。神の国というのは度々聖書に出てきますが、神様の御支配ということです。この神の国、神の恵みのご支配ということですが、それがここでパウロが「朽ちないもの」ということに言い換えられています。それを受け継ぐ前に、わたしたちが「朽ちないもの」に変えられるということがまず前提としてあるということなのです。ではどのようにして、いつ、どういうタイミングで変えられるのでしょうか。イエス・キリストが再びこの世に来られる日が、終わりの日と言われております。その日にわたしたちは変えられるのです。52節にあるように、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬に」わたしたちは変えられます。「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」わたしたちは、この終わりの日にはすでに死んでいるかもしれません。しかし、わたしたちはその日までに死んでいるとしても、この日に、イエス・キリストが再びこの世に来られる日に、一瞬のうちにわたしたちが復活して朽ちないものとされる、変えられ、そのときに神の国を受け継ぐことができる。朽ちるべきものであるうちは、肉と血である肉体を持っているうちは、わたしたちは神の恵みのご支配、神の国を受け継ぐことはできないのだとパウロは語るのです。神の国を受け継ぐときにこそ神の救いが完成されるときなのです。 わたしたちにとって、この地上の生涯がどんな深い苦しみ悩み悲しみの中で、その生涯を終わることがあったとしても、わたしたちにとっての最終的な救いというのは、わたしたちが死んで、復活の命を与えられて、神の国を受け継ぐ、そのときにわたしたちの救いが完成される、成就するのです。それが真の救いです。わたしたちがこの地上の生涯をどのように送っていようとも、苦しみ悩みのただ中にあって死を迎えるということがあっても、わたしたちには復活の希望が与えられているのです。神を信じて生きる者にそのような恵みが与えられている。わたしたちに必ず待っているのは死ですけれども、わたしたちの地上の人生は復活に至るまで、それに向けての備えのときであると言ってもいいと思います。わたしたちがこの地上の生涯において、様々な出来事に遭遇して、いろいろなことがありますが、苦しみや不幸があってもそれらが、わたしたちの人生の価値を決める決定的な事柄ではなくなるのです。わたしたちの死の遥か彼方に、復活の命が与えられているということ、わたしたちが神の国を受け継ぐ、神の恵みのご支配を受けるというその恵みを、わたしたちに与えられているということを信じて、希望を持ってこの地上の生涯を歩んでいくことができるのです。同時に、そのように復活の希望を与えられているわたしたちは、死に対する勝利を与えられていると言っていいのです。死ぬということが、わたしたちは必ずいつかは訪れるとわかっていながら、なるべくそのことを考えないように毎日を過ごしています。しかし必ず死はやってくるのです。わたしたちはそのことを自分のこととして考えようとしたときに、恐怖感に襲われたりします。死の力が、あまりにも恐ろしく大きなものに思えるときがある。しかし、死の力がわたしたちにとってどのように大きなものに思えたとしても、その死の力は、今から約二千年前にあのゴルゴタの丘で主が十字架によって殺され、三日後に復活を果たされたことによって、死の力は打ち破られているのです。それが、わたしたちにとっての大いなる希望です。神様がイエス・キリストによって、死の力に打ち勝たれたのです。そして、死の力は、しかし今もまだ残っているのですが、最終的に終わりの日、イエス・キリストが再びこの世に来られる日に、完全に死の力は無力化されます。完全に死が勝利に飲み込まれるのです。そのように生きるわたしたちが、そのことを信じるときに、わたしたちのこの今歩んでいる人生の生活そのものが変わります。58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。死の恐怖におののくのではなくて、死の力が神様によって打ち破られたということをしっかりと信じていきたいのです。主は「動かされないようにしっかりと立ち、主の業に常に励みなさい。」とおっしゃる。その主の業に励むにあたってはいろいろな労苦があるでしょう。しかし、それが決して無駄になることはない、虚しくなることはないのです。主に結ばれている限り、わたしたちの苦労は無駄になることはない。なぜなら、主に結ばれてする苦労は、復活の命へとつながっているからです。わたしたちはこの地上の生涯において、様々な労苦を味わいます。特にイエス・キリストにお従いしていく、御言葉に従っていくときに味わう労苦、その労苦は、主に結ばれている限り、主を信じて従っていく限り、無駄になることはないとパウロはここではっきりと述べているのです。わたしたちはしっかりとそのことを心に留めて、わたしたちの人生にいかなる困難なことがあっても、希望を失うことなく歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる