2025.8.17  聖霊降臨後第10主日礼拝 説教要約
エレミヤ書 38章4~6節、8~10節
ヘブライ人への手紙 12章1~4節
ルカによる福音書  12章49~53節
                          

「キリストの火」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 本日皆さんと聴いていく箇所は、何かわたしたちの心をざわつかせるような、何か触ればザラザラするような、何かそういう感じを引き起こすような、そういう箇所です。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と。「平和の君」とも言われている主イエス・キリストですが、イエス・キリストがいらっしゃったのは、この地に平和をもたらすためであり、「神は愛である」ということを、わたしたちに教えてくださるためでした。しかし、今日のところは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」とおっしゃるのです。これはどういうことなのでしょうか。ここで「火」と言われるのは、わたしたちが常識的に考えると、戦争で家を焼かれたりする火、災いの火ということが、わたしたちには当然のように、頭に思い浮かぶのです。しかし、ここで言われている「火」は、裁きの火であり、清めの火、全ての罪を焼き尽くす火という意味です。イエス・キリストがわたしたちを清めてくださるため、わたしたちの罪を焼き尽くしてくださるために、この地上に火を投げ入れてくださるのです。

 51節から53節に「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は人二人と、二人は三人と対立して別れるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと対立して分かれる。」とあります。イエス・キリストが、平和をもたらすために来たのではなくて、分裂をもたらすために来たとおっしゃるのです。このことを今わたしたちは、どのようにとらえるべきなのでしょうか。家族同士対立して別れるのだ、分裂をもたらすためにわたしは来たと主はおっしゃる。最も強い愛の絆を結んでいるはずの、深い関係であるはずの家族に分裂をもたらすために、火を投げる、とはどういうことなのでしょうか。

 人間関係、特に家族ということですが、家族のあり方ということがここで問われているのです。家族はただ、生物学的に子供の親になる。子供ができれば、法律上も親として、生きることになる。社会的にもそのように認識される。しかし、家族というのは、そういうことで家族になるのでしょうか。ただ、子供ができたからといって、すぐ生物学上の、法律上の親子関係ができたからといって、それだけで、全てが決まるのでしょうか。親子関係というのが、何かマニュアル通りに何かすれば、理想的な親子になれるというようなことではない。もちろんそこには愛情があるのですが、しかしそれは、親が子に注ぐ愛情ということは、必ずしも子供のためだけを思ってなのかというとそうではないのではないでしょうか。親がこの子はこう育ってほしいという願望が強くなりすぎて、子供を縛ってしまうということはないのでしょうか。そこには甘えやいろいろな感情が入り込んでくる。利己的な思いがそこに強く入ってきている。お互いに依存し合ってしまうということもあるでしょう。親離れ、子離れということが言われますけれども、いろいろな難しい問題がそこにはある。その中で、家族のあり方が問われている。本当に必要以上に干渉する親もいたりする中で、そして家庭内がゴタゴタしていく。愛情があるとかないとかということだけでは済まされない、家族のあり方ということがあります。その中で神を信じるわたしたちがこの主イエスの御言葉のメッセージを恵みとして、聴くことができるのです。わたしたちは罪人ですから、子供を愛していると言いながら、その愛は利己的な愛によることではないか。そういうことが、家族の中で問題を起こしているのではないか。その中にあって、イエス・キリストが火を投げ入れてくださる。その火は裁きの火であり、清めの火なのです。キリストの火によって、わたしたちの家族の関係内におけるそれぞれの罪が照らし出されあらわにされる。そして、その状態を清めていただけるのです。わたしたちがその火によって、キリストの火によって、わたしたちの関係、特に家庭内の関係は、清められ、新しくされ、より良いものにしていただけるのです。わたしたちは罪人ですので、様々なことで、自分の利己的な愛によって問題を起こしてしまいます。しかし、キリストの火によって、わたしたちの関係が清められ、新たにされるのです。そしてそこにわたしたちの決断が求められます。わたしたちはイエス・キリストの御言葉のうち耳触りのよい言葉だけを聴こうとしているのか、耳触りのよい言葉だけを聴こうとしてこの礼拝の場に来ているのか、それとも、わたしたちはキリストの火によって焼かれるために、この礼拝の場に来ているのか、そういうことが問われているのです。ともすれば、教会に来て、自分が愛されていることだけを聴く、それは気持ちのよいことですが、それだけでいいのでしょうか。わたしたちは罪人であり、多くの過ちを犯します。自分のことは自分が一番よくわかっていると言いながら、本当は一番わかっていないのかもしれません。わたしたちは、特に人間関係において、家庭内の問題において、キリストの火に焼かれることが必要なのです。わたしたちは焼かれ、清められ、新しくされ、それによってこそ、わたしたちは真の人間関係を、平和をつくり出す者に変えられていくのです。そのことをわたしたちはこの御言葉からしっかりと聴いて、わたしたちにとっては耳の痛い言葉であっても、たとえそれがわたしたちにとって必ずしも耳触りがよくないと思えたとしても、しっかりとそれを心に受け止めて、わたしたちが清められ、新たにされていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

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