2025.8.24  聖霊降臨後第11主日礼拝 説教要約
イザヤ書 66章18~21節
ヘブライ人への手紙 12章5~7節、11~13節
ルカによる福音書  13章22~30節
                          

「救われる者は少ないのか」

 本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日の聖書箇所の23節に、イエス・キリストがエルサレムへ向かって進んでおられたときに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエス・キリストに質問した人がいたとあります。その質問した人に対して、主イエスは、その人だけではなくて、一同に言われたとあります。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」とお答えになるのです。「狭い戸口から入るように努めなさい」というこの「努める」という言葉は、運動競技で、勝てるように一生懸命がんばるという意味があります。熱心に努力しなさいという意味です。これはどういうイメージで考えればいいのかというと、たとえば鍾乳洞を考えてみましょう。鍾乳洞といえば、入ると薄暗くて、整った通路があるわけではありません。通路があるのではない。本当に自然に出来たものですから、通路の中では、這いつくばって通らなければならないようなところもあるのです。かがんで通らねばならない。通ってる間に、大きな地震でもあったらどうするのか、というような心配も起こってくる。そういう勇気と体力が少しいるようなところです。狭い戸口から入るように努めなさいと言うのは、熱心さが要るということです。ここでは主イエスがおっしゃっているので、信仰に関わることです。信仰の戦いということです。信仰生活を送っていく中で、わたしたちは戦っていくということが起こってきます。サタンの様々な誘惑と闘いながら、この世的な様々な妨げとの戦いがそこにあります。そしてその狭い戸口を入って、中に入るために、努力が要る。それは、熱心さが求められるということなのです。しかも、25節以下に、「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」とあります。その戸口はいつまでも空いているのではない、戸が閉まってしまうときが来る。わたしたちはのんびりしていられないのだ。ときは限られているのだと、主イエスはおっしゃるのです。いつその戸口が閉められるかわからない。そうであるならば、わたしたちはその戸口に入れるように、決断をもって、熱心に今から努めなければならないのだということなのです。

 先ほど「信仰の決断」ということを申し上げました。信仰というのは、こうすればここにたどり着けるよという、はっきりした確証があるからそこを進むということではありません。そうであるならばそれはもはや信仰でも何でもなくなってしまいます。先行きがどうなるかわからないけれども、わたしたちを救ってくださるであろう神様への信頼に基づいて、神様が示される道を歩んでいくことが信仰の決断ということなのです。ただし、わたしたちが信仰の決断をしたからといって、一切の苦しみ、悩み、悲しみがなくなるわけではありません。しかし、神様が示される道ならば、その途中は嵐の中にあっても、わたしたちを守り導いてくださるであろうという神様への信頼に基づいて、わたしたちは歩むことができる、それが信仰ということなのです。

 ところで、わたしたちは、救い主であられるイエス・キリストが、わたしたちの深い罪が赦されるため、十字架にかかって死んでくださったということを信仰の中心に据えています。主は、わたしたちに到底耐えることができない、大きな苦しみの中で、死んでくださったのです。わたしたちは、本来であれば、神様に招かれるような資格が何もない者たちです。わたしたちは神様に背き、逆らい、深い罪を犯しています。しかし、神様はそのようなわたしたちを救いの道へと招いてくださっております。そのような道を、イエス・キリストはご自分が十字架におかかりになることによって、開いてくださったのです。主イエスが、わたしたちのために神の国にわたしたちが入るための戸口を開いてくださったのです。わたしたちは、その神の招きにお応えして、主が開いてくださった戸口を通って、救いへの道を歩んでいくことができるのです。

 しかし、その道は、その歩みは、わたしたちが孤独にたった一人で歩むものではありません。マタイによる福音書11章28節以下に「すべて疲れた者、重荷を負う者はわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう。・・・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とあります。軛というのは、二頭だての牛の背に負わせて、畑を耕す鋤をくっつけて引っ張っていく農機具です。今も発展途上国などでは、使われているものです。二頭だての牛の背中に、その軛を背負わせて鋤を引かせるのですが、その軛を背負うもう一頭の牛がイエス・キリストなのです。その歩みは、わたしたち一人だけの歩みではなくて、救い主イエス・キリストも一緒に重荷を背負ってくださって、わたしたちとともに歩んでくださる歩みなのです。ですからわたしたちが苦しみ、悩み、悲しみ、様々な困難な状況の中に置かれても、わたしたちは主に信頼して歩むことができます。わたしたちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださったイエス・キリストが、わたしたちとともにいてくださって、わたしたちと軛をともに背負って、歩んでくださる。そのことを信じるわたしたちは、信仰の旅路を希望をもって歩んでいくことができるのです。神はいつもわたしたちを招いていていてくださっています。戸口はわたしたちにいつも開かれているのです。しかし、それでもわたしたちはうかうかしていることはできない。いつかその戸口が閉められるときが来ます。ですから、わたしたちは、ためらうことなく神様の招きに応えて、主が開いてくださったこの戸口を通っていくための努力を今から始め、神様の救いにあずかることができるように祈り求めてまいりましょう。

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