2025.8.31 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教要約
イザヤ書 57章14~19節
ヘブライ人への手紙 12章18~19節、22~24節
ルカによる福音書 14章1~14節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書の箇所の1節には主イエスが「食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」とあります。さらに7節には、その食事の席、すなわち宴会の席上で主イエスが、たとえ話を話されたとあります。「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」ということなのです。上席、上座ということですが、日本では上座につくということを遠慮する、そういう風潮があります。これは昔からということでしょう。「謙譲の美徳」という言葉がありますが、遠慮する、我先に上座に競って座るなどということははしたないことであるので、なるべく後ろの方に座る。礼拝などでも、教会の集会などでも後ろの方に座る人が多いのですが、ここでイエス・キリストは別な意味で「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。」おっしゃるのです。ここに出てまいります「上席を選ぶ客」というのは、「律法の専門家たちやファリサイ派の人たち」のことでしょう。ルカによる福音書20章46節に「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。」とありますが、主はわたしたちに高ぶる者とならず「へりくだれ」とおっしゃっているのです。彼らは多くの人たちから尊敬されることを求め、自分たちこそは上座に座るべき者たちであると自認していたのです。 わたしたちはどうでしょうか、自分たちの心の中を覗いてみると、人の評価というのをとても気にしている、ということに気がつきます。例えば、わたしはそんなに能力がある人間ではないというふうに自分で思ったとしても、あの人よりはマシではないかというようなことを考えます。人を見下してしまいます。人と比べてしまう。逆に言えば、あの人にはかなわないと、わたしは駄目だというような評価を下しつつ、人間関係をつくっていく。人との関係をそういうことで、気にしながら生きているというのが実際ではないでしょうか。わたしたちは人の評価を気にするのですが、わたしたちを高く評価する人もいれば、反対に低く評価する人もいる。それぞれバラバラです。そのことにわたしたちは、一喜一憂してしまいます。しかし、わたしたちの全てをご存知であるお方は、わたしたちのことをしっかり見ていてくださいます。それは人間のあやふやな基準ではなく、神様の基準でわたしたちをしっかりと評価していてくださいます。目に見えないところでするわたしたちの行為をしっかりと見ていってくださるのです。わたしたちは人の評価とともに、わたしたちがしたことの報い、見返りを求めるということもあります。目に見えない見返りということが、わたしたちが高く評価されているということでしょう。わたしたちに誉れを与えてもらえる。世間から尊敬を受ける。それも一つのわたしたちの見返りということです。それを得た者はついつい傲り高ぶって、弱い人たちを見下してしまうようになるのです。そのようなわたしたちに対して、主イエスはおっしゃいます。12節に「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。』」とあります。兄弟や親類も招くよりはむしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさいとおっしゃっているのです。なぜそうおっしゃるのか。なぜなら、その人たちはお返しができないからだとおっしゃる。その人を招いたところで、報いがないのです。相手からの目に見える見返りがない。その人を招いたからといって、別な機会に宴会に招いてもらえるということもない。何の見返りもないということなのです。しかし、主はむしろそれが幸いだとおっしゃる。なぜなら、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」ということだからです。わたしたちがいつか死んで、この地上の生涯を終えた後、主が再びこの世に来られる日に必ず復活の命が与えられる。そのときに、わたしたちに神様からの正当な報いが与えられるというのです。わたしたちは、ともすれば自分のやったことの見返り、報いを求めたがります。いいことをした後に、それなりの世間的な評価を受けるということは嬉しいことです。わたしたちはそういう見返りを求めながら、何らかの行動をしている。しかし、ここでそういう見返りはないけれども、そういう人たちに寄り添いなさいと主はおっしゃっているのです。高ぶる者ではなくて、へりくだる者になりなさいということです。「あなた方は人からの評価を得ようとするな、人からの誉れを求めるな、へりくだれ。小さくなれ」とおっしゃりたいのです。へりくだれば、小さな人の心の痛み、苦しみが見えてくるだろう、弱い人を見下すのではなくて、愛しなさい、仕える者になりなさいと主イエスは呼びかけておられるのです。 わたしたちの行動がこの世的には全く評価されなくても、そんなことはどうでもいいことなのだ。わたしたちがなす愛の業は、報いを求めるものではない。この世的な報いは求めるなと主イエスをおっしゃっているのです。わたしたちは、神を信じる者として、神の国を目指してただこの世的な報いではなくて、神の報いを求めて、主イエスの道、愛の道を歩んでいくのです。そのようにして歩む者の姿は、神様がわたしたちに求める姿です。神様が求める者の全き姿というのはどこにあるのでしょうか。それは、主イエスご自身の中にあるのです。わたしたちは罪深く欠け多い者たちでありますが、人の評価など気にすることなく、わたしたちはひたすら主イエスのお姿にならって、神の国の道へと歩んでまいりたいと思うのです。 閉じる