2025.10.5 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教要約
ハバクク書 1章2~3節、2章2~4節
テモテへの手紙二 1章6~8節
ルカによる福音書 17章1~10節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日のところで、イエス・キリストの弟子であるわたしたちに対して、わたしたちが信仰生活において信仰者としてどのように考えて行動すべきかということが言われています。 神様の奴隷であるあなたがたは「自分に命じられたことをみんな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」と命じられます。わたしたちは信仰者として、するべきことをしたにすぎないわけですから、奴隷であるわたしたち、僕であるわたしたちの主人である神様から褒めてもらえることもあるかもしれませんけれども、当たり前のことをしただけですと言って、神様にわたしたちの謙遜さを示しなさいということなのです。 それでは「しなければならないこと」というのはどういうことなのでしょうか。そのことが、今日の聖書箇所の前半の部分に記されています。1節には、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」2節も読みますが、「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」とあります。ここで突然2節に「これらの小さい者」という人が出てきます。これは例えばどういう人が想定されているのでしょうか。「小さい者」とは、信仰生活がまだ短いというような人のことでしょう。信仰に入ったばかりで、まだ聖書の知識もない。その他いろいろな教会の中で弱い立場の人を言っているのだと思いますが、そういう人をつまずかせるなということです。 さらに3節、4節に「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい、そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。兄弟が罪を犯す。わたしたちの周りでそういう罪を犯すどうしようもない兄弟がいて、そういう人がいたら、その人を戒め、注意しなさい、そうしてその人が悔い改めれば赦してやりなさいということを主イエスはお命じになる。しかし、そうは言っても実際にはこれはなかなか難しいことです。「赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。そんなことは簡単にはできない、そんなことはできっこないとわたしたちは思ってしまいます。そういうときに、弟子たちが主イエスに「わたしどもの信仰を増してしてください」とお願いします。今わたしたちは、信仰を持っているけれども、わたしたちの信仰を増し加えてくだされば、そういうどうしようもない人も赦すことができる。そういうふうになれるのですと、こういうことは信仰がなければできないでしょうと弟子たちが主イエスに言うわけです。それに対して主は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」とおっしゃるのです。信仰というのは、量なのでしょうか。わたしたちはよく「わたしは信仰心が足りないから駄目です。」などというようなことを言ってしまうことがあります。「もっと信仰があれば」というようなことをわたしたちはよく口に出してしまうのですが、主イエスがおっしゃるには、問題はその量ではないのだと。主は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃいます。からし種というのは、本当に小さな種です。菜の花の種を知っている方もいらっしゃると思いますが、それよりももっと、もうちょっと小さい、本当に芥子粒ほどの種の大きさですが、その一粒ほどの信仰があれば、いいのだと。大切なのは、信仰があるかないかなのだと。信仰の量ではないと。それではその信仰とは何かということになります。実際そんなことはできっこないではないかと、わたしたちは考えてしまうのですが、これは弱いわたしたちのために、わたしたちがとても耐えることができないほどの苦しみを担ってくださって、わたしたちの罪を赦してくださったお方。わたしたちを救いのために、そのような大きな、わたしたちにとても耐えることができないほどの大きな苦しみを味わわれて、死んで復活された方がおっしゃっていることです。「その信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう。」と。そういうことができる信仰というのは、そのような大いなる御業をなさったイエス・キリストに対して、わたしたちの信仰を増し加えてくださいということから来るのではではなくて、キリストに結びついて、キリストにすがりついて、キリストにあって赦す、キリストにあって小さなものを愛する、ということから来るのです。さらに言えば、キリストにすがりつくということ、わたしたちの罪を赦してくださった主イエスに結びつくということ、イエス・キリストに抱きつくという、そういう心をキリストはここで信仰とおっしゃっているのです。わたしたちの弱い信仰を増しくわえてくださいということではなくて、「増し加えられたわたしの信仰によって」ということではなくて、キリストがここでおっしゃっているのは、わたしたちではなくて、わたしたちの力ではなくて、わたしたちの罪の赦しのために大いなる御業をなしてくださったそのお方に、すがりつくこと、結びつくということが大切なのです。それが「からし種一粒ほどの信仰」ということなのです。そういう信仰があれば、キリストにあって、小さい者たちを愛することができる。一日七回も赦しを求めるというどうしようもない人を赦すことができるし、そういう信仰が、からし種一粒ほどもあれば、「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くだろう。」そういうことが可能なのだということなのです。そのような信仰に生きる者へと変えていただけるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる