2025.11.9  聖霊降臨後第22主日礼拝 説教要約
詩編 23篇1節~6節
エフェソの信徒 6章18節~20節
マタイによる福音書 6章5節~15節
                          

「祈るときは」

 「祈り」と言えば、聖書の教えでは祈る内容よりも、祈りをする相手がどのようなお方かということが大事だと考えています。祈りの内容よりも、祈る相手を意識するということが大切です。その相手は神様ですけれども、神様にわたしたちの祈りをお願いする、わたしたちの願いが叶うようにお願いするということだけではなくて、神様と祈りを通じて対話をするということが大切なことなのです。

 本日の聖書の箇所では、神様のことを「天の父」と主イエスは呼んでおられます。マタイによる福音書の6章6節には、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」とあります。さらに、9節には、「天におられるわたしたちの父よ、」とありますし、14節には「あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」とあります。「天におられるわたしたちの父よ」と聖書には書かれています。父がいれば、子がいるわけです。「天におられるわたしたちの父よ」ということですから、神様がわたしたちの父であり、わたしたちは神様の子どもであるということなのです。聖書ではそういう位置づけで神様とわたしたちとの関係が書かれています。父なる神と子であるわたしたちは親子関係にあるということです。親子関係にあるのであれば、そこには愛情が入ってまいります。父なる神様は、わたしたちを愛していてくださっています。8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」とあります。わたしたちが願う前から天の父なる神様は、わたしたちに必要なものをご存知です。人間の親は愛する子供のために何が必要なのかということをいつも考えています。主なる神様も、わたしたちにとって何が一番必要なのかということをよくご存知であるということなのです。神様とわたしたちとはそういう親子関係にあるのです。それは、深い愛に基づいたことです。なぜそのようにわたしたちと神様との関係が深い愛に基づく関係だということが言えるのでしょうか。子なる神様であられるイエス・キリストというお方が、この世に遣わされたのです。イエス・キリストは、なぜこの世に遣わされたのかということですが、それはわたしたちの罪が赦されるためにです。本来わたしたちが受けなければならなかった刑罰すなわち十字架刑に処せられ、殺されたのです。わたしたちは神様の前で罪を犯している存在です。わたしたちに代わって、イエス・キリストが、十字架にかけられたのです。そういう大きな犠牲を払ってまで、わたしたちを愛していてくださるのです。神様の愛というのは、そういう深い愛なのです。そういう深い愛情をもって、わたしたちに接していてくださる。わたしたちに必要なものを、必要なときに与えようとしていてくださるお方なのです。先ほど「祈りとは、対話である」ということを申し上げました。そしてわたしたちが祈るときに、祈る相手を意識することが大切だと申しました。それが、聖書の教えにおける祈りの基本的な考え方なのです。必要なものを必要なときに与えてくださる。そしてわたしたちに必要な、わたしたちに何が必要であるかということをいつも考えていてくださる。そのようなお方がわたしたちの祈りにおける対話の相手なのです。

 それでは、神様がわたしたちが願う前から、必要なものをご存知であるのだったならば、何も祈る必要はないのではないかとも考えられます。しかし、ご自分の愛する御子を十字架にかけてまでわたしたちを愛していてくださる神様に、わたしたちは信頼の気持ちを起こさないではいられません。そのようなお方がわたしたちに悪いようになさるはずはありません。わたしたちの祈りが叶わなかったり、思う通りにならなかったとしても、神様はわたしたちのことをよくご存知であるし、わたしたちの救いのために、いろいろなことを備えていてくださるのです。聖書の教えにおける祈りというのは、いかなる状況の中にあっても、神様と祈りを通じて対話をするということです。そのことをイエス・キリストは、勧めておられるのです。神様は、わたしたちの願う前から、わたしたちに必要なものを備えていてくださるお方ですし、神様に対する信頼関係に基づいて、わたしたちは生きています。信頼があればこそ、わたしたちは安心して神様に祈りを献げることができるのです。神様がそのような深い愛に基づいて、わたしたちをその愛の眼差しで見ていてくださる。そのことをわたしたちが信じるからこそ、わたしたちは信頼をもって、祈りがすぐに叶わないとしても、祈りを通じて神様と交わりを持とうと思うのです。それが聖書における祈りの基本ということです。

 ところで、先ほど、祈りをするときに、祈る対象が大切だということを申し上げましたけれども、神様との関係をただ単に、わたしたちの願い事を求めるだけの関係と考えるならば、そういう関係の持ち方はわたしたちの人生を新しくすることはありません。先ほど、「祈りは対話だ」と申し上げましたけれども、わたしたちが祈りを通じて、天の父なる神様に語りかけ、このお方との交わりに生きるようになることによってこそ、わたしたちの人生は新しくされるのです。神様との生きた交わりによって、わたしたちの人生は新しくされる。わたしたちが祈るとき、神様の愛に信頼して、祈りを通じてどんなことでも神様に語りかけ、願い求め、あるときは文句を言ったり、愚痴をこぼしたりしてもよいのです。そして、祈りによって神様の御心を常に求めつつ、神様とともに生きていくことができます。それはなんと幸いなことでしょうか。それこそが、祈ることができる幸いなのです。その幸いに生きることができるのは、特にこの教会の集まり、礼拝において可能なのです。そのことを教会で、そしてこの礼拝で、神様に祈りを献げることによって、わたしたちが度ごとに新しいものとされるように祈り求めてまいりたいと思うのです。

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