2025.11.23 聖霊降臨後第24主日礼拝 説教要約
エレミヤ書 23章1節~6節
コロサイの信徒への手紙 1章11節~20節
ルカによる福音書 23章32節~43節
本日は、「ルカによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
今日の聖書の箇所は、わたしたちの救い主イエス・キリストが無実の罪で死刑の判決を受けて、他の死刑囚と一緒に十字架につけられるという場面です。 十字架につけられた主イエスに向かって、議会の議員たちが、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」とののしります。「神からのメシア」というのは、「油そそがれた者」という意味ですが、本質的には自分たちを救ってくれる王、救い主という意味があります。それほどの力を持っているということであれば、他の人たちをいろいろ救い、そして神様から選ばれた者であるならば、自分も救ってみろ、そうしたら信じてやろうということがこの言葉の裏にはあったのでしょう。 ところが、この隣のもう一方の十字架にかけられていた犯罪人が、そのもう一人の犯罪人に対してたしなめたとあります。40節に「するともう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。」とあります。さらに41節ですが、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と彼は言うのです。このもう一人の人は、同じ犯罪を犯したのですけれども、イエスというお方が、自分たちとは違うということに気付かされたのです。どうやらこのイエスという人は、わたしたちと違って、死刑に値するような犯罪を犯した人ではないということに彼は気づかされたのです。何も悪いことをしていないのに、十字架にかけられていると。このことの意味をこのもう一人の犯罪人は、気づかされたのです。最後の最後になって、この犯罪人が目を開かせられました。彼は悪いことをずっとしてきた人だったのでしょうけれども、その彼の地上の人生の最後の最後になって、彼は悔い改めの心を与えられたと言っていいのではないでしょうか。無実のお方が、わたしたちの救いのために十字架の刑罰を受けられている、そのことの意味を彼は悟ることができたのです。そして、42節にありますが、彼は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」と言うことができました。それは悔い改めということです。悔い改めるには、早ければ早いほどいいのかもしれませんけれども、このようにして、自分の人生の最後の日に、悔い改めることができた。そのことを神様は受け入れてくださったのです。すると、主イエスは43節にありますが、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたとおっしゃいました。直訳しますと、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいるだろう。」とおっしゃったのです。これから三人で死ぬのだけれども、「あなたは今日をわたしと一緒に楽園にいる」と。死んだ後あなたは今日わたしと一緒に楽園にいると言われたということなのです。死ぬということは、わたしたちは誰でも例外なく起こってきます。遅いか早いかは別にしても、いつ死ぬかわかりませんけれども、わたしたち誰一人として例外なく、死ということから免れることはできません。必ずわたしたちは、どのような原因によってかは人それぞれですけれども、必ずわたしたちは地上の生涯を終えるときが来るのです。わたしたちはそのことを頭ではわかっているつもりですけれども、あくまで他人事でいます。なるべく自分が死ぬということを現実の問題として考えることを避けて生きています。特に自分の身近な人が亡くなったりするとそうですが、人間は必ず死ぬのだということを、突きつけられるわけです。わたしたちはニュースなどで、毎日人が死んでいくということは知ってます。こうしてる間にも世界中のどこかで、そして日本中で誰かが死んでいる。それは現実として、確かなことです。しかしそういう現実というものを、自分のこととして考えるということをわたしたちは避けています。自分にとって死というのは、どういうことなのかということを、わたしたちはなかなか現実の問題として考えることが難しいのです。 わたしたちが死ぬということについて、現実にどうなるのだろうかと多くの人は疑問に思います。そのときになってみなければ、わからないという開き直りもあるでしょうけれども、そのことについて不安に思っていない人などはおそらく誰もいないと思います。使徒パウロは手紙の中で、自分は早くこの世から去りたい、自分が死んで主イエスとともにいることこそ、自分の最も大きな希望であると手紙にパウロは書いています。自分が死んだら、主イエスにお目にかかって、主イエスと一緒に暮らすことができる、主イエスとともにいることができるということが、パウロにとっては何よりも望んでいることだったのです。わたしたちが死んだらどこに行くのかという疑問はわたしたちに湧いてきますけれども、ここで主イエスがはっきりと、「あなたが今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださっています。イエス・キリストを信じる者は皆、死んだ時に必ず、主イエスにお目にかかれるし、主イエスと一緒にいることができるのだ。死んでから主イエスと一緒にいることが、すなわち楽園なのだとそのように主イエスはここで断言しておられるのです。わたしたちのこれからの人生はどうなるのか、そしてどのような死を迎えるのかということは、わたしたちにはわかりませんけれども、わたしたちが不安に思うその死のときには、主イエスにお目にかかることができ、主イエスがはっきりと明らかな形でわたしたちと一緒にいてくださるということを信じることができるのは、わたしたちにとって大きな幸いではないでしょうか。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、平安のうちに自分の死というものを迎えることができるように、そのときがいつ来てもいいように、しっかりと心の備えをして、悔い改めの心をもって歩んでいけるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる