2025.11.30  待降節第1主日礼拝《アドヴェントⅠ》説教要約
イザヤ書 2章1節~5節
ローマの信徒への手紙 13章11節~14節
マタイによる福音書 24章36節~51節
                          

「キリストを身にまとって」

  本日は、「ローマの信徒への手紙」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。

 本日から、アドヴェント・待降節に入ります。アドヴェント・待降節は、クリスマスの前の四週間、主のご降誕を祝い、喜びをもってその備えの時を過ごすための期間です。

     本日の13章11節に「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」とパウロは書いています。神の救いが完成される日、十字架にかけられて復活なさって、イエス・キリストが神の右に座しておられるイエス・キリストが救いの完成される日を「再臨」と言います。再びこの世に来られる日、その日が救いが完成する日であると、その日が近づいているのだとパウロは述べるのです。当時は、主の再臨が近いと信じられておりました。しかし、その日がいつ来るかは誰にもわからない。主イエスですら、その日がいつ来るのかはわからないとおっしゃっています。だからといって、破れかぶれになって好き放題のことをしていいということではありません。その終わりの日は、裁きの日でもありますから、その日がいつ来てもいいように緊張感を持って生きなければいけないのです。

 13節に「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」とあります。「品位をもって歩む」ということはどういうことでしょうか。12節に「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」とありますし、さらに13節の後半では、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」とありますから、そのような闇の行いを脱ぎ捨てて歩む。それが、キリスト者として品位を持って生きることだ、そのように使徒パウロは述べているのです。

 11節から12節に「救いは近づいている」と「夜は更け、日は近づいた」とパウロは述べます。わたしたちが闇の中に、夜の闇の中にいるように思えても、必ず朝を迎えるということなのですが、それは「朝が来ない夜はない」などということわざに類することではなく、それはただ単に「夜の終わり」を意味するのではなく、「救い」が来るということなのです。闇がいつまでも続くように思って、闇の行い「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」の中に身を置いてしまいます。そのようなことが続いていく。もうそれで良しとする。そのような希望のない中で、世の人々は開き直って、罪の中に身を沈めているということが見られるのではないでしょうか。しかし、パウロはここで「夜は更け、日は近づいた。」と言っているのは、救いは近づいている。終わりの日が、何月何日のいつ来るのかはわからないけれども、救いが近づいている。この世は闇の中だけれども、救いは近いのだと。だから終わりの日がいつ来てもよいように「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と述べています。さらに、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。」とパウロは書いているのです。そのような闇の行いを捨てて、キリストを信じる者として、品位ある生き方を身につけようと。それがすなわち、主イエス・キリストを身にまとうということなのです。

 「キリストをまとう」あるいは同じことですが、「光の武具を身に着ける」ということですが、ここで言われている「光の武具」というのはすなわち、主イエス・キリスト、そのお方のことです。「キリストを着る」ということは、キリスト者として品位を持って歩むということですが、最後のところに「主イエス・キリストを身にまといなさい、欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」とあります。「肉」とはまずわたしたちの体のことですが、それだけではなくて、自分の欲望なども全て含めて「肉」という言い方をしています。わたしたちが見つめるべきことは、今とそして目先のことで何をしたい、これをしたい。そういうことだけではなくて、もっと先を見よとパウロは述べているのです。わたしたちが見なければならない先のことというと、わたしたちが生きている間だけのことではなくて、わたしたちが死んだあとの命、復活の命、永遠の命ということです。聖書では、わたしたちキリストを信じる者は、先に召された人たちとともによみがえる命をいただいて、永遠の命が与えられるということを主は約束してくださっています。永遠の命、復活の命は、天の父なる神様が、わたしたちのためにイエス・キリストを犠牲にして与えてくださったものです。わたしたちはそのことを深く心に留めて、感謝して品位を持って歩むことが求められているのです。それが「キリストをまとう」ということです。キリストを信じる者として品位ある生き方を身につけることを指しているのです。キリストを身にまとうことによって、キリストと結び合わされ、そしてキリストと一つとされて生きるのです。そしてそのことによって、わたしたちの生き方は新しくされます。

 14節に「主イエス・キリストを身にまといなさい」とありますが、そもそもわたしたち自分だけの力でそういうことができるのでしょうか。それはわたしたちにはできないのです。わたしたちのように弱く、罪にまみれた者たちが、自分の力でキリストを身にまとう。キリスト者として品位ある生き方を身につけるということは難しいことなのです。では、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。わたしたちは、単純なことですけれども、信仰者として、キリストを身にまとって生きることができるように、聖霊の力をこい求めて、ひたすら祈る。それが大切なことなのです。恵みとして天の父になる神様が、主イエス・キリストを身にまとうことができるようにしてくださいます。その時こそ、わたしたちの生き方は新しくされるのです。わたしたちはそのことをしっかりと心に留めて、クリスマスまでの良き備えのときを歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。

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