2025.12.7 待降節第2主日礼拝《アドヴェントⅡ》説教要約
イザヤ書 11章1~10節
ローマの信徒への手紙 15章4~13節
マタイによる福音書 3章1~12節
本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
2節に「悔い改めよ。天の国は近づいた」とあります。「天の国」というのはどういうことでしょうか。これはよくこの世で言われている天国、何か死んでから行くお花畑のようなところということではありません。「マタイによる福音書」では、「神の国」ということを、「天の国」と(同じ意味ですけれども)いう言い方をしています。「神の国」というのは、直訳しますと、「神のご支配」という意味があります。神のご支配、神の救い、それがこの世で完成していく、そのことが、近づいているのだとヨハネがここで民衆に宣べ伝えているのです。それは結論的に言うと、神の国、神のご支配が近づいており、それはこの後、わたしたちの救い主イエス・キリストがこの世に来られて、大人になられて、神の国の福音を宣べ伝えられる、そこから、神の救いが始まっていくということなのです。わたしたちの救い主であられるイエス・キリストがいらっしゃるその前に、その道を備える、露払いとしてわたしは来たのだとヨハネは言うのです。天の国は近づいている、神のご支配が近づいている、まさに救い主がいらっしゃることを待ち望みつつ、そういう状況の中で、ヨハネは民衆に対して、悔い改めよと強く訴えたということなのです。さらに、本日のところの後の後半ですが、11節以下ですけれども、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とあります。わたしの後から来られる方、ヨハネの後から来られる方は、ヨハネよりも優れており、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」とあります。「火で洗礼を授ける」ということの意味は、わたしたちは裁かれるということです。その裁きは厳しい裁きであって、「殻を消えることがない火で焼き払われる」のです。10節に、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とあります。わたしたちはこの箇所を読むときに、とても自分はこのことから免れない、わたしたちは火に投げ込まれるしかない者たちだと思わされるのです。わたしたちはこのことを読むと、足がすくんでしまいます。わたしたちは、とても神様の厳しい裁きに耐えられるものではないと恐れおののくのです。そこでわたしたちは、それらのことによって、天の国、神の国、神の救いは、完成されるのだろうか、神の裁きによって、神の救いが完成されるのだろうかと疑問に思ってしまいます。洗礼者ヨハネの後に、救い主として来られるお方は、ヨハネが言うように、火によってわたしたちを裁くお方で終わってしまうのでしょうか。驚くべきことに、しかし、まさに逆転と言っていいことが起こります。切り倒されて火に投げ込まれるのは罪深いわたしたち人間のほうではなくて、救い主であられるイエス・キリストご自身であったのです。主がわたしたちの罪が赦されるため、わたしたちの深い罪が赦されるため、わたしたちの身代わりとなって十字架にかけられる。わたしたちには到底耐えることのできない、大きな苦しみを味わわれて死刑に処せられる。ご自身が切り倒されて、火に投げ込まれる、そのことによって、わたしたちが救われるということが起こったのです。わたしたちがどんなに努力して、神様の前で立派な行いをしたとしても、わたしたちは罪にまみれておりますので、神様の前で完全に正しい者として生きることはできません。もしわたしたちが神様の前に正しく信仰深く生きるということが、ここで求められているのだとしたら、それはわたしたちには到底できることではないのです。わたしたちの救いのために、そのように正しく生きられないわたしたちのために、わたしたちの身代わりとなって、火に投げ込まれたお方、そのお方こそが、わたしたちの救いの源になるのです。神様の前で正しく生きられないわたしたちの救いのために、神様は愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたのです。わたしたちがそうしていただくにふさわしさが、わたしたちの内にこれぽっちもないにもかかわらず、神様が恵みによって、そのようにしてくださったのです。悔い改めとは神様に背を向けているわたしたちが、神様に向き直ること、元々そういう意味なのですが、しかし、わたしたちの力だけでは、それはなかなか難しいことなのです。神様が恵みによって、悔い改めることがなかなかできないわたしたちのために、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられたということ、それはまさに神様の愛と憐れみによることであり、まさに恵みとしか言い得ないことです。神様は、わたしたちの側に何のふさわしさもないにもかかわらず、わたしたちにそのようにしてくださる。わたしたちに何の見返りも求めずに神様は、わたしたちにそのようにしてくださっているのです。わたしたちはそのような恵みの中に置かれています。そのことにわたしたちが気がつくときに、わたしたちはただ、それが当たり前のことだと思って、そこを簡単に通り過ぎることができるのでしょうか。そうであればこそ、わたしたちは自分から進んで神様の御用のために、信仰の業に励むことができるのです。そのことがまさに「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(8、10節)ということなのです。 わたしたちは今、アドベント・待降節のときを歩んでいます。わたしたちの救いのために愛する御子イエス・キリストをこの世にお遣わしてくださり、十字架にかけてまでわたしたちを愛してくださったその神様の恵み、それがイエス・キリストというお方ご自身に表れている、そのことをわたしたちはしっかりと心に刻んで、感謝して、このクリスマスまでの備えのときを歩むことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる