2025.12.14 待降節第2主日礼拝《アドヴェントⅢ》説教要約
イザヤ書 35章1~10節
ヤコブの手紙 5章7~10節
マタイによる福音書 11章2~11節
本日は、「マタイによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。
本日の聖書箇所ですが、洗礼者ヨハネが「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と弟子を主イエス・キリストのところに遣わして、質問をさせたとあります。来たるべき方とはイエス・キリストのことです。クリスマスにこの世に来られるお方、来るべきお方が来られるということです。前回わたしたちは洗礼者ヨハネが荒れ野に来て、悔い改めの洗礼を授けていたということを聖書から聴きました。そのヨハネが後に牢の中に入れられたのです。その牢の中で、ヨハネはイエスというお方の評判を聴いたのでしょう。それで、自分の弟子たちを派遣して、主イエスに「来たるべき方はあなたなのでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」という質問を弟子にさせたということなのです。ヨハネの後においでになるお方が、どのようなお方なのかということを、前回のところで御言葉に聴きました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、雑穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」とヨハネは申しました。自分の次に来る、後から来られる方は、そのように厳しい裁きをなさるお方である。そのお方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。火というのは、厳しい裁きのことを意味します。神に背き逆らっている者は、主によって消えることのない火で焼き払われるのだという厳しい表現で、ヨハネは人々に悔い改めを求めるのです。自分の後に来られお方、救い主として来られるお方は、そのように厳しい裁きをなさる方であるので、あなた方は神に背き逆らっているその姿勢を改めなさい。しっかりと神様に全身を向け直しなさいとヨハネは民衆に訴えたのです。 ヨハネは牢の中にいながら、わたしの後から来られる方が、ユダヤの各地で様々な癒しの業や奇跡の業をなさっているが、罪人を愛し、罪人と一緒に食事までしているということを伝え聴きました。それで、ヨハネはイエスというお方は、わたしが考えていたような、厳しい裁きをされる救い主なのだろうか、という疑問を持ち始めたのです。もともとヨハネが抱いていた救い主のイメージは、厳しい裁きを行うお方でした。人々に罪を悔い改めさせて、神の教えを守らせる。そのことによって、救いが得られる。旧約から受け継いだ旧約の教えを体現しておられる救い主ということなのです。それはヨハネだけではなく、旧約の律法を守ることによって救いが得られると信じていた人たち全てが、救い主とはそのような人だと確信していたのです。しかし今度来たお方、イエスというお方はそのようなお方ではないようだ。罪人も救われるとおっしゃるお方でした。「つまずかない人は、幸いである。」とイエス・キリストはおっしゃいました。ヨハネは、このイエス・キリストにつまずきそうになったということなのです。「この人は本当の救い主ではない」と捉えそうになったヨハネはイエス・キリストをきちんと理解しなかったのです。 「来るべき方は、あなたでしょうか。」という質問は、ヨハネがイエス・キリストにした質問ですが、これはヨハネだけではなく、わたしたちにもあてはまることなのです。わたしたちも、わたしたちにとっての救い主はどういうお方かということを、たびごとに考えさせられます。自分の思う通りのことをしてくださるお方が救い主であると考えてしまう。病気が治ること、家庭の問題や、隣人との関係、自分が抱えている本当に困っている問題、そういう問題に対する具体的な解決を与えてください、とわたしたちは祈ります。しかし、わたしたちの祈りはいつもかなえられるとは限りません。そういうときわたしたちは、イエス・キリストにつまずきそうになる。本当に神はいらっしゃるのだろうかと疑問に思ってしまったりする。自分がしてほしいことをしてもらえなかったからということで、イエス・キリストにつまずきそうになってしまうのです。自分が望んでいた通りのことをしてもらえたら、その人を救い主としてその方を信じよう、となる。わたしたちは自分の都合のいいような神様を作りあげて、それを拝んでしまう。それは、自分のイメージと合わなければ信仰を捨ててしまうということにつながりかねない危険性を持っています。そのときわたしたちは、イエス・キリストに「つまずいてしまう」のです。「わたしにつまずかない人は、幸いである。」とイエス・キリストはおっしゃいました。わたしたちは、来たるべきお方はイエス・キリストしかいない、このお方の他に救いはない、わたしたちが全面的に信頼できるお方は、このお方より他にない、ということをわたしたちはしっかりと固く信じて、悔い改めて、神様に向き直って歩いていけるように祈って行きたいのです。わたしたちは様々な罪を犯してしまいます。本来であれば籾殻のように、わたしたちは分けられて火で焼かれなければならないはずの者たちです。しかし、驚くべきことに、火で焼かれたのはわたしたちではなく、裁き主であられるイエス・キリストご自身だったのです。主イエスが、わたしたちの代わりに火で焼き払われたのです。十字架にかかって死んでくださったのです。わたしたちが受けるべき裁きをイエス・キリストが代わって負ってくださったのです。わたしたちは弱い者ですので、主イエスにつまずきそうになることも度々です。しかし、わたしたちの救いのために死んでくださった、裁きの火で焼かれてくださったイエス・キリストを見上げて、悔い改めて生きることができるように、イエス・キリストにつまずかないで歩んでいくことができるように祈っていきたいのです。わたしたちの代わりに裁かれたイエス・キリスト、火で焼かれたイエス・キリストを救い主として受け入れるところにこそ、わたしたちの真の幸いがあるのです。 閉じる