2025.12.21 降誕日主日礼拝《クリスマス礼拝》説教要約
イザヤ書 60章1~3節
ヨハネによる福音書 1章1~18節
本日は、「ヨハネによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日の礼拝は、クリスマス礼拝としてお献げしております。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真実に満ちていた。」とあります。この一節に、イエス・キリストがこの世にお生まれになった意味が凝縮されています。言葉が肉となってこの世に来られたということ、神の御子イエス・キリストがこの世に来られたということは、わたしたちの救いのためであったということなのです。4節に「命は人間を照らす光であった。」とあります。イエス・キリストがこの世に来られたことによって、もうその光はすでにずっと輝いているのだということなのです。また9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。「すべての人を照らす」ということは、キリストを信じている人も信じていない人にも、この世のすべての人にこの光が照らされている。歌の文句に「この世はまっ暗闇だ」というのがありますが、世界や日本国内も、見渡せば悲惨なニュースを聞かない日はないぐらいに、暗い出来事が国の内外のあちこちで起きています。戦争や紛争によって、今わたしたちがこうしている間にも多くの人たちが傷つき、倒れています。わたしたちが知らないだけで、本当にこの世には、深い悲しみや苦しみに満ちている。そのことを見ると、この世が光に照らされているなどとは、とても言えないのではないかと思ってしまいます。しかしすでに光は来ているのです。この世が闇のように思えるようなときでも、光がすでに来ているのです。この世界が真っ暗闇のように見えていても、そこにはキリストの光が照らされている。5節に「光は暗闇の中で輝いている」と記されています。また一方では、「すべての人を照らしている」ということも語られています。光があれば闇があるということなのですが、しかし、イエス・キリストというお方が光となって、この世にいらっしゃっているのだからこの世は救いようがないほどの「真っ暗闇」などではないということなのです。それはクリスマスの出来事によって、わたしたちに示されているのです。クリスマスは、この世に生きるすべての人たちにとっての救いの出来事なのです。 わたしたちは、光を見るときに、光が明るければ明るいほど影は濃くなるのだということに、心をとめたいと思います。ぼんやりした光であれば、影は薄いままです。自分という人間が、正しく生きようと思っても、生きることができない。いつの間にか人を傷つけてしまう。人を愛そうと思っても、いつの間にか無意識のうちに人を傷つけてしまっているときがある。それは罪ということです。わたしたちは、そのことをもって自分の罪ということ、影の部分をしっかりと見つめていく必要はあるのですが、しかしそのときに、わたしたちはどのようにして、イエス・キリストというまばゆい光にどう向き合っていくのかということが問われているのです。よく「お天道様に顔向けができない」などいうことが言われます。キリストの光に照らされると自分の罪が露わになって苦しくなります。しかし、主イエスはそのようなわたしたちに救いの手を差し伸べてくださるのです。すなわち、それは、光に向き合う力が与えられるということです。ともすれば、そういう苦しみから逃れるためにわたしたちは、主イエスに背を向けようとしてしまいますが、それはわたしたちをかえって苦しめることになるのです。わたしたちが太陽の光に向き合うのではなくて、光に背を向けるときに、影はわたしたちの前にできます。わたしたちが太陽に向かって顔を向けるときに、わたしたちの影はわたしたちの後ろに伸びるのです。わたしたちが太陽に顔を向けるときに、わたしたちの後ろに影ができることは、わたしたちは気づかないことになります。わたしたちがイエス・キリストという光に背を向けるときに、わたしたちの前に影ができるのです。光に顔を真正面から向けているときには気がつかなかった自分の影が、わたしたちがイエス・キリストという光から背を向けるときに、影はわたしたちの前にできてしまうのです。わたしたちはいつも自分の影におびえ、絶望することになってしまいます。わたしたちは、イエス・キリストに対して自分の罪を見つめたくないばかりに、イエス・キリストから背を向けてしまいますが、しかし、わたしたちがしっかりとイエス・キリストという光に顔を向けて生きる。わたしたちがイエス・キリストに背を向けることなく、イエス・キリストという光に真正面から向き直って生きるということ、それがまさに悔い改めるということなのです。いつも神様から、主イエスから背を向けている、そのわたしたちの姿勢を神様のみ言葉に聴くことによって、イエス・キリストと光の方に体を向け直すことができる、そのことがわたしたちの救いに繋がっていくのです。み言葉にしっかりと聴くことによって、わたしたちに信仰の力が起こされ、まっすぐにイエス・キリストに顔を向け直す力が与えられます。それがまさに悔い改めるということであり、それがわたしたちの救いに繋がっていくことなのです。わたしたちはこのクリスマス礼拝において、そのことをしっかりと心にとめておきたいと思うのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここで「恵みと真理とに満ちていた」とありますように、わたしたちが満ち溢れる神様の恵みと真理の中に生かされているということを、キリストの光に照らされることによって、わたしたちは改めて知ることができます。それがわたしたちにとっての救いということなのです。わたしたちはこれからの日々をキリストに背を向けるのではなくて、たびごとにしっかりとみ言葉に聴いて、キリストの光を真正面から浴びて希望をもって歩んでいくことができるように祈り求めてまいりましょう。 閉じる