2025.12.28 降誕後第1主日礼拝説教要約
イザヤ書 63章7~9節
コロサイの信徒への手紙 3章12~21節
マタイによる福音書 2章13~23節
きょう皆さんと聴いてまいります聖書の箇所ですが、特にこの16節から18節のところは、「ヘロデ、子供を皆殺しにする」という小出しがついております。ここには、わたしたちが耳をふさぎたくなるような、悲惨な出来事が記されているのです。なぜこのような二歳以下の男の子を一人残らず殺させたということが、ここに記されているのか。これはイエス・キリストがお生まれなったことによって、こういう悲惨なことが起きてしまったということなのです。当時ユダヤを支配しておりましたヘロデという王様が、王様となるべき方がお生まれになったといううわさを聞いて、そのことを確かめようとして東の国からやってき占星術の学者たちに対して、その子供はどこに生まれるのか教えてくれと、占星学者たちに頼んでいたのです。しかし、彼らはヘロデのところには戻らずに、自分たちの国に帰ってしまいました。そのことを知ってヘロデは、大いに怒りました。ヘロデは自分の王座を脅かす者がこの世に現れるということを、とても恐れたのです。自分の権力、王の地位が脅かされることに彼は非常に不安を覚えました。その彼の不安感によって、子供たちが殺されるというまことに悲惨な出来事が起こってしまいました。子供が殺されるというのは、何もこの二千年前の、このユダヤの地だけにあることではありません。わたしたちが住むこの日本においても、そのようなことは起こってしまいます。今から二十四年前ですが、大阪の小学校で八人の子供たちが殺されてしまう、というまことに痛ましい事件が起きてしまいました。遺族であるお母さんの一人が今の心情を吐露しているニュースを以前見たのことがあったですが、彼女は二十年以上経った今でも悲しみ苦しみが癒えることはないと語っておりました。このお母さんに限らず、事件や事故で愛する肉親を失った人は、何年経ってもその悲しみが癒えることはない、むしろ悲しみ苦しみが新たになる、というようなことを言っています。
ヘロデは自分の権力に対する欲望が強い人でありました。わたしたちはこのことを何か他人事のように、何かの映画や芝居を観る観客のように見てしまうのですが、果たしてそういうことで済むものでしょうか。わたしたちもまた「小さなヘロデ」なのではないでしょうか。わたしたちの人生、わたしたちを巡る全てのことを支配するのは自分である。自分の人生の王はわたしである。そういうふうに考えて、それぞれ自分の欲望に従って、自分の欲望をあたかも神様のようにして拝み、自分を世界の中心であるかのように考えて行動してしまう。そのことがわたしたちの中で、いさかい、争い、憎しみ合いということを起こしてしまうのです。それが聖書で言われている罪ということなのです。その罪から、全く無縁である人はいません、ただお一人以外には。イエス・キリスト以外に、罪から自由である人は誰一人いません。その罪が生み出す様々な争い、憎しみ、妬みそういうことが、わたしたちの苦しみの根本、大本なのです。わたしたちがこの世を生きるときに、様々な出来事、苦しみ、悩み、悲しみの出来事がありますけれども、そのことの根本は、わたしたちの罪から出ていることなのです。 それでは、苦しみ、悩み、悲しみの原因になってしまうわたしたちの罪、その罪ゆえの苦しみを抱えて生きるわたしたち、そのようなわたしたちの救いはどこにあるのでしょうか。先ほどわたしたちはご一緒に読みましたけれども、イザヤ書のところをもう一度読みたいと思います。63章の9節をもう一度ご覧ください。「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と哀れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。」このところは、昔から救い主イエス・キリストのことを表していると解釈されてきました。愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった、とあります。この「贖い」ですが、「愛と憐れみをもって彼らを贖い」とありますけれども、その「贖い」という言葉は、現在ではほとんど使われない言葉です。「贖う」という言葉の元々の意味は、奴隷を買い戻すという意味があります。奴隷に売られた人をお金で買い戻すという意味です。このことから、困難な状況の中にある人を救い出すという意味が生まれてまいりました。イエス・キリストは、十字架によって御自身の命を献げてくださり、御自身の命でわたしたちの命を買い戻してくださったのです。そして、わたしたちが背負う罪ゆえの様々な悩み、苦しみを担ってくださる。その罪の重荷を担うだけではなくて、その苦しみ悩み、それを抱えるわたしたちそのものを背負ってくださる。そこまでこのイザヤ書は預言しているのです。さらに、そこに関連した箇所として46章の3節4節には「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とあります。神の御子イエス・キリストは、わたしたちの重荷を背負ってくださるだけでなく、特にわたしたちが本当に悩み苦しむときにわたしたち自身を背負ってくださるのです。人生のこの旅路を、一緒に歩んでくださるのです。わたしたちには、これまで様々な出来事があり、苦しいこと悲しいことがあって、押し潰されそうになるような出来事が過去にあったとしても、今このようにして生きています。それは、自分の力でこの苦しみを乗り越えたのではなくて、実はわたしたち自身をイエス・キリストが背負ってくださったことによって、わたしたちは今、今日がある。そのように御言葉から聴くことができるのです。人生の中で本当に苦しく、つらいときにわたしたちを背負って歩いてくださる方がいつもわたしたちと共におられるということを決して忘れずに、わたしたちはこれからの人生を希望を持って歩んでまいりたいと思うのです。 閉じる