2026.1.4 降誕後第2主日《新年礼拝》説教要約
列王記下 6章8~17節
エフェソの信徒への手紙 1章15~23節
ルカによる福音書 24章36~49節
本日は、「エフェソの信徒への手紙」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
本日皆さんと三つの聖書の箇所を先ほど読みました。この三つの箇所に共通する言葉があります。エフェソの信徒への手紙の1章18節に「心の目を開いてくださるように。」というパウロの祈りがここに書かれております。列王記下にも6章17節に「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」とあります。さらにルカによる福音書には、24章45節に「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。」とあります。それでは「心の目を開く」というのはどういうことでしょうか。わたしたちは物をいつも見ています。物事を現実として見ます。今この世では情報があふれています。テレビ、新聞そしてインターネットなどからの情報に満ちています。パソコンを開いたりすれば、あふれるばかりの情報がわたしたちに押し寄せてきます。本当にわたしたちが、情報の洪水の中に巻き込まれてしまっていると言っていいと思います。わたしたちが肉の目で見ていることも、もちろん大事なのですけれども、わたしたちが実際に現実に見えているものとは違うものを、心の目を開いて見ることができるようにしてくださいとパウロはここで祈っているのです。わたしたちが現実とされているということを、わたしたちは現実と思い込まされて、わたしたちは見ていることもあるでしょう。この世のわたしたちが目に見えること、そのことがすべてであるかのようにわたしたちはいつの間にか思わされているのです。わたしたちはそういう現実しか見ないようにされてしまっている。「現実を見よ」ということもよく言われます。足元をしっかり見て、地に足をつけて、現実を見るということが賢い生き方だとされている。しかし、わたしたちが今ある現実だけしか見ないとしたならば、わたしたちが神様を、目に見えない神様を信じる意味や、価値も見出せない人間になってしまうのではないでしょうか。神様のことを考えることなく、神様のみ旨を、み心を尋ねることなしに、生きることになってしまうのです。信仰を持つわたしたちが、そういうこの世の現実だけしか見なくなったならば、もはやそれはもう信仰者ではなくなってしまうのです。わたしたちは目には見えないけれども、神様が見せてくださる現実を信じている者たちです。イエス・キリストが神様の御子であられて、死人の中から復活したということをわたしたちは信じておりますけれども、信仰というのは、わたしたちが目にするこの世界の現実を超えた神の業、神の力、神の救いの働きを見る、心の目を開いて見るということなのです。信仰とは、この世の現実だけしか見ないということをやめて、心の目を開いて、心の目で神からくる夢を見て、神が告げる幻を語り、天の神の現実を望み見て生きるということです。 わたしは以前ある教会の建堂式に行ったことがあります。そのときにある長老が挨拶の中で言っておられたことが、今でもわたしの心に印象深く残っています。その教会は隣に幼稚園が併設されています。その長老がおっしゃるには「わたくしは幻を見る」と。「子供たちがお母さんと一緒に礼拝に手を繋いでやってきて、この教会の新しい会堂が、そういう子供たちとお母さんたちでいっぱいになるという幻を見る」とその長老は挨拶でおっしゃっていました。わたしはその挨拶を聞いて、現実としてどうなのかということも一瞬考えたりはしましたけれども、その挨拶がとても心に残りまして、いま思い出しますとそれが「神の現実」ということなのではないかと気づかされるのです。そういう幻を見るということは、わたしたちは許されておりますし、まさに心の目を開かされてそういう現実を見ることができるのです。それは何の根拠もない妄想や、幻想ではありません。その根拠というのは、パウロが「心の目を開いてくださるように」と祈っておりますけれども、パウロや主イエスの弟子たちが信仰の目で見た、信仰に基づいたことなのです。パウロは信仰に基づく根拠があるからこそ、心の目を開いて、神の救い、神の国の救いを望み見るということが断言できるのです。その根拠とは何かといいますと、本日のエフェソの信徒への手紙の20節から21節に「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」とある通りのことなのです。これは、パウロとイエス・キリストの弟子がまさに信仰の目で見ることができた神の現実でした。神の救い、神の国の希望というのは、パウロや弟子たちにとって根拠のない妄想や空虚な願望にすぎないということではなかったのです。心の目は神様が開いてくださるのであって、それはわたしたちの力ではありません。神の力、聖霊の力が働いて、わたしたちの心の目が開かれるのです。それによって、わたしたちは神の招きによる希望、すなわち神の子とされる喜びの知らせというものを、わたしたちは見ることになるのです。わたしたちに対する神の力の絶大さ、すなわち神の恵みと祝福を見ることになるのです。 わたしたちは、この世の現実だけ見れば、もう絶望するしかないように見える状況にもおかれることもあります。そのとき、希望が見えない、明日が全く見えないという現実を突きつけられてしまうわけですけれども、しかし、わたしたちが「心の目を開いてください」と神様に祈るならば、神様はその祈りに応えて、わたしたちの心の目を開いて見せてくださいます。わたしたちは、この世の現実とは異なる神の力による現実を見ながら、この世を信仰を抱いて生きていくことができるのです。年の初めの礼拝にあたって、わたしたちはこれからの日々をこの世の現実だけを見るのではなくて、神の救いの現実を心の目を開いて見せていただけるようにひたすら祈り続けていきたいと思うのです。 閉じる