2026.1.18  降誕後第4主日礼拝 説教要約
イザヤ書 53章1~12節
コリントの信徒への手紙一 1章1~9節
ヨハネによる福音書 1章29~34節
                          

「神の子羊」

 本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。

 イエス・キリストがこの世においでになって、宣教活動を始められる前に、その道の備えをするために、ヨハネはやってきました。今日の聖書箇所の23節に「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」とあります。彼は人々に対して「悔い改めよ、そして洗礼を受けなさい。罪の赦しを得させる洗礼を受けよ」とヨルダン川で人々に呼びかけ、そして人々はそれに応えて洗礼を受けていたのです。それは彼自身が救い主メシアということではなく、ヨハネの後に来られるお方、そのお方のために道の備えをする露払いとしてやってきたということです。そのことを本日の前のところで、ヨハネは語ります。そしてヨハネがそのようにしているその翌日に、自分の方へイエスが来られるのを見て言ったとあります。29節に「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」とヨハネが言った、そのことの意味は何でしょうか。なぜヨハネがイエス・キリストのことを、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのでしょうか。先ほど読みましたイザヤ書の箇所、イザヤ書53章ですが、この箇所は別名「主の僕」と呼ばれている箇所です。その特に53章の7節に「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」とあります。このイザヤ書の「主の僕」は、まさにイエス・キリストのことを指している箇所であり、そのように預言されている箇所と言われています。5節に、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とあります。わたしたち人間の罪、裁かれなければならないその罪を代わりにその身に背負われて、わたしたちが受けるべき刑罰を代わりに受けて死なれたイエス・キリスト、そのお方が旧約聖書において、神殿において犠牲として献げられる小羊に例えられています。旧約聖書の時代には、人間の罪を贖うためにわたしたちに代わって、小羊や他の動物を犠牲として献げるということがなされておりました。出エジプト記に、奴隷の国、エジプトの国に留め置かれていたイスラエルの民を救い出すために、イスラエル人たちの家の鴨居に、門の鴨居に小羊の血を塗って神様の怒りを過越すということが書かれております。人間の罪を贖うために、この小羊が犠牲として献げられる、それがイエス・キリストというお方のことであるということがこのイザヤ書において預言されているのです。

 わたしたちの罪、あまりにも深い罪の数々を背負ってくださり、それらの罪を贖ってくださるため、わたしたちの罪が赦されるために小羊として犠牲になってくださったお方がイエス・キリストなのです。罪が赦されるということが、世の罪を取り除くということです。「神の小羊」としてイエス・キリストはこの世に来られました。それはわたしたちの罪が赦されるためでした。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」とのヨハネの言葉、ヨハネはこの言葉によって信仰の告白をしたのです。このことがまさに、信仰の告白ということなのです。そして、さらに34節に「この方こそ神の子であると証ししたのである。」とあります。イエスというお方がヨハネの前に来て、洗礼を受けられる。聖霊が降る。そのことを見てヨハネは、この方こそ神の子であると、改めて信仰の告白をしたのです。それは、この御方こそ神の子であられる、わたしたちの罪を取り除く小羊であられる、この方を信じることによって、神の救いにあずかることができる、そのことを証しするということです。ヨハネは神の救いの、そのことの証人として彼はそれからの人生を生きたのです。ヨハネはわたしたちの信仰者の模範です。わたしたちはヨハネのように、あなたこそ救い主であられる、神の子であられる、世の罪を取り除く神の小羊であられるという信仰の告白をし、そしてこの世にそのことを証して生きる、それがわたしたち信仰者のなすべきことです。わたしたちも主の証し人とされる、主の証人となるのです。この証するという言葉はあまり日常語では使いませんが、この世に神の教えを宣べ伝えていくということを意味します。しかし、それは何もわたしたちが一軒一軒家を訪ねて、教会に来てくださいと伝道するということだけではなくて、わたしたちが「わたしはクリスチャンです」ということを明らかにしてこの世で生きること、家族や友人、知人、クリスチャンでない人たちが圧倒的に多いこの世の中で、わたしたちが自らクリスチャンである、キリスト者であるということを明らかにして生きることによって、彼らはわたしたちの言動を見ています。わたしたちがどういうことを語り、わたしたちがどういう行いをするのか、ということを見ているのです。その時にわたしたちがみ言に従って生きる、キリストの香りを放って生きる、そのことによって、わたしたちは主の証人として神の教えを証しする者として生きていくということになるのです。それは、わたしたち自身の力によるのではなく、聖霊の働きを受けてできることです。ヨハネは水によって洗礼を授けていましたが、イエス・キリストは聖霊によってわたしたちに洗礼を授けられました。わたしたちは、イエス・キリストによって、聖霊の力を受けて洗礼を授けられた者たちであり、その集まり、共同体の一員です。わたしたちがその群れの一人一人として、「イエス様、あなたこそ神の子であられます。世の罪を取り除く神の小羊であられます。」との信仰の告白をして、神の救いを証ししていくことができるように、聖霊の力を乞い求めて、歩んでまいりたいと思うのです。

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