2026.2.8 降誕後第7主日礼拝 説教要約
イザヤ書 58章7~10節
コリントの信徒への手紙一 2章1~5節
マタイによる福音書 5章13~16節
本日は、「マタイによる福音書」を中心にみ言葉に聴いてまいりましょう。
わたしたちは、主日の礼拝において、主にマタイによる福音書から言葉に聴いておりまして、その第5章、主イエスがお語りになったいわゆる「山上の説教」の箇所を読んでおります。主イエス・キリストは、本日の13節以下で、わたしたちに対して「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である」と語りかけておられます。塩というものは、わたしたちの生活に不可欠なものです。塩の入っていない料理など、あまり美味しいものだとは言えません。塩分の取り過ぎは体に悪いことですけれども、さりとてわたしたちは塩なしには生きてはいけません。塩は物が腐るのを防ぎます。「あなたがたは地の塩である」とは、あなたがたはこの世に良い味をつけ、またこの社会の腐敗や堕落を防ぐ。なくてはならない働きをしている、ということです。「あなたがたは世の光である」とは、文字通り、あなたがたが光としてこの世を明るく照らしているということです。主イエスは、わたしたちにあなたがたはこの世になくてはならない塩であり、光だと語りかけておられるのです。しかしわたしたちは、はいそうです、とはなかなか言えません。自分が地の塩や世の光だとは到底言えないのではないかと、尻込みせずには、いられないのではないでしょうか。しかし、わたしたちはそうは言っても、案外平気でこの言葉を受け止めているということもあるかもしれません。それは、主イエスに従う信仰者は「地の塩、世の光」としての働きを期待されているのだから、そうなれるように努力しようという意味においてです。「地の塩、世の光」という言葉を、努力目標として捉えるならば、すんなりわたしたちは受け入れることができるのです。「地の塩、世の光」になれるように頑張ろうということなら、結構簡単に言えるのです。けれども、それは主イエスがお語りになったこととは違います。主イエスは、あなたがたは「地の塩、世の光」になりなさい。そのように努力しなさいと言われたのではありません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言われたのです。主イエスは、わたしたちに努力目標をお示しになったのではありません。弟子として、あるいはみ言葉を聴こうとして、この礼拝に集まっているわたしたち全ての者に、主イエスはあなたがたは地の塩、世の光なのだと、厳かに宣言しておられるのです。 それでは、そのような本当の「地の塩、世の光」である生き方というのは、どういうものでしょうか。先週み言葉に聴きましたように、主イエスは5章3節以下にある、「心の貧しい者は幸いである。」に始まる八つの幸いをわたしたちに与えようとしておられます。実は、これらの幸いに生きることこそが、「地の塩、世の光」として生きるということなのです。それは何か立派なことをすることではなくて、わたしたちがそれぞれの日々の生活の中で、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いに支えられて、心の貧しいものとして、悲しむものとして、柔和なものとして、義に飢え乾くものとして、憐れみ深いものとして、心の清いものとして、そして平和を実現するものとして、義のために迫害されるものとして、生きるということです。人々の前に示せと言われている立派な行いとは、この八つの幸いに生きることなのです。この立派な行いとは、世の人々のために地の塩として役立つ人間になること、世の人々を照らすほどの立派な行いということですが、そんなことはとても自分には無理なことのように思われるかもしれません。しかしそもそも主イエスは、特別に立派な行いをすることができる人々を祝福されたのでしょうか。そうではありません。主イエスが祝福されたのは、弱り果て、困り果て主イエスのところに救いを求めに来た人たちでした。その人たちを祝福し、世の光とされたのです。 この立派な行いというのは、真の光であられる主イエス・キリストと一つにされたがゆえに、主イエスの祝福を受けたが故になされる行いなのです。それは、はたから見れば、大したことではないような行いではあったとしても、主イエスを愛し、主イエスを信頼し、主イエスに従ってなされる歩み、その全てが立派な行いなのです。5章1節以下の幸いに生きることが立派な行いであると申しました。しかし、これらは決してわたしたちの栄光や誉れにはなりません。なぜなら、これらの幸いは人に誇ったり自慢できるようなものではないからです。しかしわたしたちが主イエスによってこれらの幸いにあずかって生きるなら、そこには天の父なる神様によって、驚くべき光が輝かされていくのです。そして人々がこの幸いに生きているわたしたちを見て、わたしたちをではなく、天の父なる神様をあがめるようになるのです。 「地の塩、世の光」とは言い換えるならば、主イエス・キリストこそ「真の地の塩、世の光」ということです。この真の地の塩によって味つけられ、真の世の光によって照らされることによって、わたしたちも「地の塩、世の光」となるのです。しかし主イエスがここで警告しておられるように、わたしたちはその塩としての味を失ってしまうことがあります。そうなってしまったならば、何の役にも立たないものになってしまいます。それは生まれつきの自分に戻ってしまうということです。生まれつきのわたしたちは、そもそもが神様の前で何の役にも立たないものたちでした。わたしたちのために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった、真の地の塩、真の世の光であられる主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちが新しく生かされることによって、わたしたちは「地の塩、世の光」とされたのです。わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたこの塩味を光をこれからも失うことなく、歩んでいきたいのです。そのために真の「地の塩、世の光」であられる主イエス・キリストのもとに、常に集い、主イエスの元を離れずに、歩んでいくことができるように祈り求めてまいりたいと思うのです。 閉じる