2026.3.15 受難節第4主日礼拝 説教要約
サムエル記上 16章1~13節
エフェソの信徒への手紙 5章8~14節
ヨハネによる福音書 9章1~12節
本日は、「ヨハネによる福音書」を中心に言葉に聴いてまいりましょう。
イエス・キリストは、そのご生涯におきまして、様々な奇跡を起こされています。本日はその中でも、生まれつき目が見えない人の目を見えるようにしてくださるという奇跡の業が取り上げられています。今日の聖書箇所の最初のところですが、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」とあります。この「見かけられた」という言葉ですが、通りすがりにちらっと横目で見るというようなことではではありません。次の節に弟子たちの質問があります。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と質問いたします。弟子たちがこの目の見えない人を見て、そういう質問をしたから、主イエスがその目の見えない人をご覧になったのではなくて、主イエスがまずこの目の見えない人に目をとめられて、しっかりと見られたことに弟子たちが気がづいたから、彼らはそのような質問を主イエスにしたということなのです。そのことを、本日はしっかりと心に留めていきたいと思います。 イエス・キリストは、ここで彼らの質問に対して驚くべきことをおっしゃいました。3節ですが、「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」とあります。イエス・キリストは弟子たちに対して、この人の目の見えない原因が罪にあるのではないとお答えになりますが、なぜこの人はこのような目が見えない状況になっているのか、という弟子たちの問いに対してその答えを主が指し示すことはなされないのです。イエス・キリストは、神の業がこの人に現れるためであるとおっしゃいます。その神の業とは何か、ということが次に示されています。6節以下ですが、「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、シロアムという池に行って洗いなさい。」とお命じになります。この目の見えない人はその通りにしたところ、目が見えるようになりました。それが具体的に言えば、神の業が現れたということなのです。ここで主イエスがわたしたちをそういう原因探しというところから、前を向くようにとわたしたちを導いておられます。そのようにわたしたちは、このことから読み取らなければならないのです。 この目の見えない人が、イエス・キリストのなさった神の業によって目が見えるようになる、それが神の救いということですが、そのことがここで示されているわけです。原因探しをしてしまう、後ろの方ばかり見てしまうわたしたちに、将来を今を見つめさせてくださるのだ、神の救いの業がわたしたちに現れる、そのことを信じなさいと言ってくださっているのです。神の救いの業が、この目の見えない人に現れました。それは具体的には、目が見えるようにしてくださったということにおいて、表されたのですが、しかし、この後の方にもありますけれども、この9章全体を見るときに、目が見えるようにされたという一つの出来事だけで、全てが終わるのではないということがわかるのです。彼は目を開けていただいたということ、自分の目が開かれたということ、そのことだけに今のところ目がいっています。12節に「人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません』と言った。」あります。彼は、自分を救ってくださったお方のほうに目がまだ行っていないのです。そのお方がどういうお方なのかということが、彼にはわかっていません。このあと9章の全体、最後まで読むとわかるのですが、最初はこのイエス・キリストがどういうお方かということが全くわかっていない彼は、最終的には「あなたは救い主です」と、信仰告白をするまでに導かれています。神の業、神の救いの業が彼に現れたということの中身は、彼が肉の目を開いていただいたということだけではなくて、むしろもっと大切なこと、霊の目が開かれて、イエスというお方こそ救い主であられるということを気づかせてくださったということ、そのことこそがわたしたちが目を向けるべき神の業なのです。それではそのことはわたしたちとどのような関わりがあるのでしょうか。神の業、神の救いの業はわたしたちにも働くのです。そのことがわたしたちにどう働いているのでしょうか。その働き方は、人それぞれに様々です。神様はわたしたち一人一人に個々別々な形で神の業を働かせてくださいます。わたしたちの気づかない形で、神様はわたしたちに救いの業を表してくださっているときもあります。後から考えれば、そういうことだったのかと気づかされるということもあるでしょう。今起こっていることに失望し、そのことの原因探しばかりをしているわたしたちです。主はそのようなわたしたちを前の方に目を向けさせてくださるのです。必ずや、わたしたちの上に神の業が働くということ、そのことを信じていくこと、そのことが大切なのです。この生まれつき目の見えない人はわたしたちのことでもあるのではないでしょうか。わたしたちは見るべきものを見ていないし、見えていないのです。主イエスがわたしたちのそばにいてくださって、いつもわたしたちを見つめていてくださる。この目の見えない人を見つめてくださったその同じ眼差しで、わたしたちを見つめていてくださるということがわたしたちにはわからないのです。わたしたちは神の業が働いているということ、主イエスがわたしたちをしっかりと見つめていてくださっているということ、そのことに応えていくことが求められています。わたしたちは主イエスの眼差しに応えて、主の御後に従い、わたしたちに与えられた務めを果たしていくことが求められているのです。つまりわたしたちが神のみ旨に従うこと、神に仕え、主を信じ、主のみ跡に従うということが大切です。そのことがわたしたちがなすべき業なのです。そのことをこそ主イエスはわたしたちに求めておられます。そのことを確信して歩めるように祈り求めていきたいのです。 閉じる