2026.3.22 受難節第4主日礼拝 説教要約
エゼキエル書 37章12~14節
ローマの信徒への手紙 8章8~11節
ヨハネによる福音書 11章28~37節
本日は「ヨハネによる福音書」を中心に御言葉に聴いてまいりましょう。
いま私たちは、「ヨハネによる福音書」11章からみ言葉に聴こうとしております。11章はいわゆる「ラザロの復活」の話ですが、先ず語られているのはラザロの病気と死のこと、それによってラザロの姉妹マルタとマリアが深い嘆き悲しみに陥ったことです。そこに主イエス・キリストが来て下さり、ラザロは復活して新しい命を生き始め、マルタとマリアも悲しみから解き放たれて、新しく生き始めたのです。 28節にあるように、マルタはマリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちしました。29節に「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」とあります。悲しみにうちひしがれてうずくまっていたマリアが、マルタのこの言葉を聞いて立ち上がったのです。マリアが立ち上がることができたのは、彼女が、「イエス様こそ神の子、救い主です。私はそう信じています。あなたも信じれば救われます」と教えを垂れたことによってではありません。マルタが語ったのは、「主イエスが来て、あなたを呼んでおられる」ということだけです。「あなたはこうすれば不安や恐れから抜け出すことができる」という教えではなくて、悲しみ、不安、絶望に捕えられているあなたのところに来て下さっている方がいる。その方があなたを呼んでおられ、あなたと出会おうとしておられる、ということを告げたのです。そうしたら、絶望して身動きがとれなくなっている人が動き始めたのです。新しい出来事が起り始めたのです。今、私たちが、教会が世の人々に告げるべきなのは、告げることができるのはこのことであり、このことのみです。そして実は伝道というのは常にそういうことなのです。伝道とは、「あなたはこうすれば救われる」と教えることではなくて、「主イエスがあなたのところに来て、あなたを呼んでおられる」と告げることなのです。 33節に、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て」とあります。この「見て」は大事な言葉です。嘆き悲しみ、不安と恐れの中にいる私たちのところに主イエスが来て下さり、私たちが苦しみ悲しみ泣いているのを「見て」くださるのです。私たちの嘆き悲しみ、不安と恐れに主イエスのまなざしが注がれるのです。そこから、主イエスによる救いのみ業が始まるのです。彼女らが泣いているのを見た主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮して」とあります。主イエスの心に激しい「憤り」が起っているのです。それは何に対する憤りでしょうか。それは、主イエスがこの憤りによって戦っていく相手、すなわち、ラザロを捕え、マルタとマリアを悲しみと絶望の中に閉じ込めている死の力です。主イエスの憤りは、そのように私たち人間を捕えている死の力にこそ向けられており、主イエスはこの憤りをもって死の力に戦いを挑んでいかれるのです。 主イエスの「(ラザロを)どこに葬ったのか」という問いがその戦いの始まりです。これは普通に読めば「ラザロの墓の場所はどこか」という問いですが、そこには深い意味、含蓄があります。葬るとは、その人が死んだという事実を認め、その人はもはや死の支配下にあり、誰も彼をそこから解放することはできないことを確認する、ということを意味しています。主イエスは憤りをもってそのことに疑問を投げかけておられるのです。あなたがたは、ラザロは死に支配された、もう彼を救うことができる者はいないと思っているが、本当にそうなのか?と問うておられるのです。 この問いに人々は「主よ、来て、御覧ください」と答えました。そう答えるしかないのです。「だって、ラザロは現に死んで墓に葬られています。その墓が確かにここにあります。どうぞ見て下さい」。それが私たちの目に見えている現実、動かしようのない事実です。しかし、このことによって大事なことが起ったのです。主イエスがラザロの葬られている墓に来て、それをご覧になったのです。主イエスがラザロの墓に「来て」、それを「見た」のです。33節までのところには、主イエスがマリアのところに「来て」彼女たちが泣いているのを「見た」ことが語られています。34節では、ラザロが葬られた場所に主イエスが「来て」、「見た」のです。先程も申しましたように、このことから、つまり主イエスが、私たちのところに来て下さり、私たちの苦しみ悲しみの現実を見て下さることから、新しい出来事が、主イエスによる救いのみ業が始まるのです。 その新しい出来事、救いの御業(みわざ)の始まりが35節の「イエスは涙を流された」ことです。ラザロが死に支配され、遺族たちが泣いている、その現実を見て激しく心を動かされ、主イエスは涙を流されたのです。主は、私たちと共に泣いて下さってもいるのです。しかし、それは私たちが愛する者の死の悲しみの中にある人の前で、慰めの言葉もなく、ただ共に泣くしかないという同情の涙と同じものではありません。主イエスの涙は、私たちを捕えて支配し、私たちに苦しみ悲しみを与え、希望を失わせようとしている死の力との戦いの始まりです。その戦いにおいて主イエスはさらに涙を流し、私たちのために大きな苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。そしてこの戦いは、父なる神が主イエスを復活させて下さったことによって終わりました。神の恵みが、死の力に勝利したのです。死の支配は神の恵みによって打ち破られ、死からの解放と新しい命が打ち立てられたのです。 私たちを脅かしている根本的な力である死の力の前では私たちは、人間は全く無力です。死を滅ぼしてその支配から人を解放することができる者はいません。しかし、神は、独り子主イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活とによって、つまり主イエスご自身が受けて下さった苦しみと悲しみ、そして死によって、主イエスが流して下さった涙によって、死の支配を打ち砕き、私たちに復活の命、もはや死に支配されることのない永遠の命を約束して下さったのです。 閉じる